内向的なぼくたちへ (その5) :内向的であることも外交的であることも、どちらも正しい生存戦略
バランスをとりながら生きる
これまで散々、内向的であることは悪くないと、シャイな人間を代表して書いてきたわけですが、だからと言ってぼくたちだって、ずっとシャイなだけではやっていられません。気のおけない友達と一緒にバカ話をすることはいくらでもありますし、自分のポリシーを守る為に誰よりも大きな声で強く主張することだってあります。外向的で社交的な人が常日頃から気兼ねなくおしゃべりを楽しめることに比べると、そこにたどり着くまでの順序が少し違っていたり、そのペースが少し遅かったりするだけなのです。誰にだって外向的な面もあれば、内向的な面があるはずで、それぞれの方法でバランスをとっているのではないでしょうか。
もう少し、内向的な人の特徴を深掘りしていきます。そしてなぜ、現代社会で「望ましくない」とすら考えられている内向的な性格がいまだ存在し、実はそれがどのように人間の生存に役立っているかということを学びます。
内向的であるということは、敏感であるということ
前回の記事で、古代より人間の脳内にある扁桃体が衝動や感情という、原始的な機能をつかさどっていて、この扁桃体の敏感さによって内向的か外向的かにかたよっていくということを書きました。つまり、内向的である人の方が、この扁桃体がより敏感であるということです。
敏感な人というのは、次のような特徴があります。「自分で行動をする前に他の人の行動を観察する。視覚や聴覚など、五感が敏感である。他人から見られていると緊張する。新しく会う人とのスモールトークや雑談が苦手。創造的で直感的に考えることが得意。音楽や自然、アートなどを好む。とても感情豊か。他人の感情の変化にすぐ気づく。細部に気がつく。」など。
ぼくの経験から具体例を挙げるなら、新しく会う人とのスモールトークや雑談を苦手とするということにおいて、ぼくたちのように敏感で内向的な人にとっては、「スモールトークのような内容の薄い話は面白くない。」のです。それよりも、誰かと深い話をじっくりと交わした方がよほど面白いわけで、パーティー会場でチョウのように社交して飛び回ることを苦手とします。そして、「スモールトークくらい、できるようにならないと!」とプレッシャーを受ければ受けるほど、その必要性を頭では分かるけれども心がついていかないという状態になり、とても苦しくなるのです。
また、他の例として、ぼくはホラー映画とか怖いビデオゲームが苦手です。昔、リング・貞子の本を友達から借りて読んだ時にはひどく後悔をしましたし、バイオハザードのようなゲームも絶対にやりたくありません。映画を観るならハッピーエンディングなストーリーに限ります。こうやって文字に書いているだけで、うぅっ、となります。他にも、他人が苦しんでいる姿を見ると、それがテレビの世界であれ、気づけば共感してしまい、胸が苦しくなってくるということも日常茶飯事です。
緊張して顔が赤くなったり、汗をかいたりすることも、敏感であるがゆえです。逆に、何かあっても顔色一つ変えず、汗もかかずに「クール」でいるような人は、鈍感で何も感じていないだけなのでしょう。そんな時、そのクールな人は頼りがいがあると考えることができますし、事態の深刻さを理解できていないかもしれないと考えることもできます。いずれにせよ、どちらも良し悪しがあるというわけです。
外交的であることも、内向的であること、どちらも生存戦略として正しい
外向的な人が積極的に新しいことに挑戦したり新しい人との交流を広げたりすることに対し、内向的な人は、それを見て学んでいます。そうすることによって、危険や失敗に遭遇するリスクを減らしているわけです。そして、どこに危険が遭遇しているのかを注意深く観察するためにこそ、内向的な人の神経は敏感にできています。だからこそ、細かなことによく気づき、そして細かなことであたふたするのです。
このように、外向的な人はどんどんとリスクを取りながら、先行者優位で生存確率を高めていくことに対し、内向的な人は、後ろを歩くことによって得られる果実が減るかもしれないが、その分のリスクを減らすという、異なる戦略をとります。どちらも正しく、人間の生存確率を高めることに貢献しているというわけです。
ちなみに、内向的な人に多く見られる、他の人から見られていると緊張するという症状ですが、あれはその昔、人間が大平原を歩いている時に野獣に狙われていやしないかビクビクしながら周囲を気にしていたことの名残りである、という説があります。
続きは次回。