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ケンペルの見た日本 (その6) :長崎の街の日常風景、ポルトガル人・スペイン人・オランダ人

ケンペルの見た日本

長崎の街の日常風景について江戸時代の当時、日本には「五ヶ所」と呼ばれる重要な港湾都市・商業都市があり、その一つが長崎でした。他の4つは、都 (京都) 、江戸 (東京) 、大坂、堺です。外国から来た人たちは、長崎に逗留することを義務付けられ、そこには様々な文化が交流する様子が見られたようです。オランダ人は、出島が居留地として定められていたのに対し、中国人は薬園と呼ばれる丘陵地に住んでいたとのこと。

ケンペルの目から見ると、地元の日本人のほとんどがとても貧しく、そこらじゅうに物乞いがいたといいます。街中からは常に騒音が聞こえてきていて、それは、そういった貧しい人たちが「なんまんだ、なんまんだ」と唱えている声だったということです。これは、浄土宗の唱え文句、「南無阿弥陀仏」のこと。

ケンペルはまた、徳川幕府による統治組織と、地元の藩・大名による統治組織との両方をよく調べており記述しているのですが、その下位組織の一つ、「大人 (おとな)」に関する説明が興味深いです。

「大人」とは、「通り」ごとにおり、その通りに住む住人たちの投票によって選ばれます。要するに、その「通り」のリーダーと振る舞うわけですが、主な仕事は、住人の生年月日の管理、誕生・死亡・結婚・転出入などの管理、そして、それぞれの宗教の管理までを担当します。地域に問題や犯罪があれば、それを処理するのも、大人の仕事です。当然、地元住人からのリスペクトを得ている人が任につくから成り立つ仕事です。もともとこのように、隣人たちからリスペクトされ、責任をもって地域社会に貢献する人のことを「大人」と呼ぶんだなぁ、ということを学ぶと、とても感慨深いものがあります。



ポルトガル人・スペイン人と、オランダ人との違いについて

ポルトガル人がはじめて日本に来たのは1542年とされていて、その後もキリスト教の布教と合わせて多くの人たちがポルトガルからやってきました。しかし、このポルトガル人たちの日本での振る舞いは目にあまるものであったようです。地元の文化を尊重しないどころか、道で日本の高官に出会わした際、道をあけるように言われたものの無視し、我が物顔で闊歩し続けたこともあるそう。海外貿易に疎い日本人たちを相手に多くの利益を得ていたわけで、その度が過ぎていったのでしょう。これは当時、大航海時代で全世界を支配しようとしていたスペイン人も同じこと。

日頃から強欲で地元の日本人ともめることもあったようで、結果として、キリスト教の教義自体も疑わしく見られるようになってしまったわけです。徳川幕府からしてみれば、「キリスト教の傘に隠れて、自分たちの欲を満たそうとしているだけではないか。しまいには、徳川幕府より、ローマに忠誠を尽くすべきだと地元住人たちに触れまわっている。」と見なされます。しまいにはポルトガル人が、幕府からの忠告を無視し、天皇のお膝元である都 (みやこ) にまで教会を建設しようとしました。

そのため、ポルトガル人もスペイン人も、そしてキリスト教も、日本国内への入国が禁じられるようになったというわけです。

これに対してオランダ人は、自分たちの利益になる貿易のみならず、徳川幕府が喜ぶようなものも世界各地から持ち込み、さらには徳川幕府のどのような指令に対しても従順に従ったことで、その後も出入国が許可されることとなったのです。

続きは次回。